2015年2月11日水曜日

囲碁の歴史と大久保利通の役割

古代中国やインドが発祥の地と言われる囲碁。歴史があまりに古過ぎて史実は不明ですが、現在世界的な広がりを見せる囲碁の普及に日本が果たした役割は絶大です。そして、日本での囲碁の歴史を振り返ったとき、どうしても外せない人物が徳川家康です。
徳川家康はあまりにも著名な人物なので、囲碁との関係を知らない人は「どうして家康?」となり、知ってる人は「そうだよな、家康だよ」となるわけですが、やっぱり家康えらいですよ。この偉さは信長、秀吉の及ぶところではありません。

家康は江戸幕府を開き、平和な時代に移行することを意識して学問を奨励し、様々な文化を保護する政策を進めました。その保護対象に囲碁や将棋も入っていたわけですが、俗に「江戸300年」と言われる平和な時代にあり、幕府の保護のお陰もあって日本国内での囲碁は大いに発展したのです。そんなこともあり、日本棋院は第一回の囲碁殿堂入りに徳川家康を選出しているほどです。

さて、時代は下って明治になります。薩摩、長州を中心とする政権が誕生するわけですが、当時権力を握っていたのは大久保利通です。征韓論争で西郷隆盛を政権から追い出し、独裁者とも呼ぶべき地位を手にする大久保ですが、そんな彼のもとに京都から苦情が届きます。それは
「京都の景観が荒れて困っている。幕府は景観を維持する費用を出してくれていたが、新政府は何をやっているのか?」
というものでした。

これを聞いた大久保利通は江戸幕府が実施していた文化保護政策の意義に気付いて驚愕したといわれますが、幕府の保護を失って困窮していた文化人は先に述べた囲碁や将棋を始め、様々な方面に渡っていました。

自らが大の囲碁好きでもある大久保は幕府の政策を受け継ぎ、それら諸芸能をあらためて庇護します。歴史作家の海音寺潮五郎は「機会があったら、感謝祭くらいあるべきだろう」と大久保の功績を讃えていますが、日本棋院のページを見ると、「大久保利通らが有形無形の援助をしました」とあるだけで、意外にそっけない扱いです。

現在の日本で囲碁の中心地たる日本棋院が重要視しているのは大久保利通ではなく、棋院設立に貢献した大倉喜七郎のようで、「大倉喜七郎賞」という表彰を設けていますし、近代以降で囲碁殿堂に初めて入ったのが大倉喜七郎だということからも伺うことができます。
ところが、日本棋院の設立時、大倉喜七郎が就任したのは副総裁。では総裁は誰だったかというと牧野伸顕という人物です。誰ですか?となるわけですが、この牧野は大久保利通の次男なのです。日本棋院設立に牧野が関わったのは、父・大久保利通の囲碁好きに影響を受けていると見て間違いないでしょう。

この牧野伸顕が父・大久保利通の思い出話として語り残しているところによると、大久保にとって
「娯楽は碁で、退屈したり、頭を使い過ぎたりした時は、碁を囲んで慰めていたようである」
ということだったそうで、明治以降も囲碁を楽しんでいた様子が分かります。
ちなみに、「頭を使い過ぎた」ときに囲碁に向かい合うというのが経験者にしか分からない感覚だと思うのですが、通常の思考とはアタマの使い方が異なるためか、囲碁を打つと不思議とリラックスできるのです。大久保利通もきっとそうだったと思います。

ところで、ここに出てきた大久保、大倉とくれば喜七郎ではなくその父の大倉喜八郎が思い出されます。明治10年、西南戦争の最中であるにも関わらず、大久保利通は朝鮮半島が深刻な飢饉に見舞われていること聞いて見過ごせないとし、大倉喜八郎に依頼して人道援助のための救援米を現地に届けさせています。
当時の日本で絶大な輿望を集める西郷が反旗を翻し、政権が転覆するかもしれない危機の中の決断ですから、大久保の人物の大きさが分かると共に、当時の日本人の武士道に基づく考え方を理解する一助になる逸話だと思います。このときの大久保の人道援助によって救われた人々の中から、現在の韓国等のプロ棋士が生まれているかもしれないことを考えると、国同士は別にして囲碁界だけでも交流してみてはどうかなとも思いますが、いかがなものでしょうかね。

参考文献:




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